若者にとってのワークライフバランス

ワークライフバランスという言葉を良く聞くようになりました。国の方針もあって、いろいろなところでセミナーも開かれています。

ワークライフバランスをそのまま「労働時間短縮」に置き換えて考えているようなイベントもあります。

でも、本当の意味でのワークライフバランスは単純な「労働時間短縮」とは違います。バランスです。

「仕事」と「仕事以外のこと」 のバランスですが、私としては「仕事以外」というのをもっと細かく考えるべきだと思うので、私の定義は、ワークライフバランスとは、

人生における様々な役割の割合

です。ドナルド・スーパーは、これを「ライフロール」と呼び、サニー・ハンセンはそれは「パッチワーク」に例え、ファザーリング・ジャパンでは、寄せ鍋と言っています。どれも、よりたくさんの種類があった方がよい(パッチワークは綺麗になるし、寄せ鍋は出汁が出ておいしくなる)と言っています。

 

人は誰でも様々な役割を持っています。労働者であり、父親であり、夫であり、兄であり、子どもであり、町内会のメンバーであり、PTAの役員であり・・・・などなど、非常に多くの役割を持っています。

その割合の比率を適正なものにすることが「ワークライフバランス」です。

この割合の比率が適正でないと、心の病にもなりやすいと思います。

適正な比率というのは、人それぞれ違いますが、同じ人であってもステージ(人生の中での位置)によっても変わってゆきます。

そういう意味で、現在バランスが良くない人が多いと思うのが、結婚前の若い男女と、小さい子どものいる夫婦です。

小さい子どもの居る家では、お父さんがもっともっと家にいて、子育てに主体的に関わる必要があると思います。それによって、お母さんがストレスをためすぎることも減るし、子どもとの絆も深まります。何より、その後の夫婦関係に一番大きく影響します。その話は、それだけで長くなってしまうので、今回は詳しく書きませんが、とにかく子どもが小学校に入るまで位は、「父親」という役割の比率をずっと高めるべきだと思います。

もう一つ、割合の悪い人たちは、結婚前の若者達です。いわゆる「ゆとり世代」と呼ばれる人たちや、それよりももう少し年上の人たち。

バブル崩壊後に生まれたり育ったこの世代は、「労働時間短縮」「ワークライフバランス」などと言う言葉をはき違えて、頑張ることがかっこ悪いなどと考えたりする人が少なくありません。

どんなことでも、一生懸命頑張ったことで得られることはとても多いです。どれくらい必死に頑張ったかによって、得られるものの大きさは変わってきます。それは、頑張って働いたら給料がたくさんもらえるなんていうことではなく、自分の限界まで努力したことで、限界を引き上げることができるとか、自信を持っていろいろなことに挑戦できるようになるということです。

よほど基礎能力の高い人は別として、(私も含めた)世の中の8割くらいの人は、もともと大した能力はありません。だから、頑張って能力を引き上げる必要があります。仕事の能力や社会人としての様々な能力の伸びしろが大きいのは、若者です。

若いうちには、徹夜したり休日無く仕事に打ち込むのは、とても重要だと思います。

その頑張りが、その後、子どもが生まれて、人生の中の仕事の比率を下げたときでも、仕事のアウトプットを下げない能力を身につけることになりますし、仕事の比率を下げても総合力を上げてゆける源になります。

20代の人たちにとっては、「寝食を忘れて必死に働く」くらいで丁度バランスがとれるのだと認識して欲しいです。

【20代の頃】無料で英語学校に通う方法を考えた(1993年〜1994年)

問題に直面したとき、人によって対処法は違います。

1992年にオーストラリアに渡った私が、しばらくして抱えた問題は、

「英語を勉強したいけどお金がない」

という問題です。アルバイトをしていたので普通に生活はできてましたが、英語学校の入学金や授業料を払う余裕はありません。この問題を解決法を考えました。

解決法には大きく分けて二つあります。

  1. お金を準備する方法
  2. お金を使わずに何とかする方法

お金を準備する方法としては、アルバイトをしてお金を貯めるとか、親に頼んで送ってもらうとかあると思います。 多くの人はこちらで知恵を絞ると思いますが、私の場合は、お金を貯めている時間がない、親に頼むのはイヤ、と思っていたので、「2」のお金を使わずに何とかする方法を考えました。

 

最初に、英語学校に無料で通う方法を考えました。なかなか大手の英語学校は制度がキッチリ決まっているので難しいだろうと思い、ターゲットは小規模のオーナー先生がやっているような学校。

 

友だちが通っていた塾的な英語学校に行ってみました。英語が話せない私がどのように交渉したのかは定かではありませんが、以下の条件で交渉が成立しました。

  • 週2日授業を無料で受ける
  • 毎日掃除をする
  • 日本人の生徒との連絡係(相談係)になる
  • 余った時間に手書きの書類をパソコンに入力する

ちょうど、その学校は正式な学校としての認可を受けようとしていて、大量の申請書類を作っているところでした。オーナー(先生)は、パソコンが苦手で書類は全て手書きで作っていたので、それを入力する仕事が大量にあり、それを入力するという条件が響いたようです。実際、当時の私はもの凄くタイプが速かったので、相当役に立ったと自負しています。

  

留学したことがない人で、海外に住めばネイティブスピーカーと友だちになって、語学が上達すると思っている人がいますが、それは間違いです。もちろん、本人の頑張りによってはできますが、日本で暮らしていても友だちって学校や職場など極限られた場所でしか作れない人が多いと思います。

海外に住んだところで、語学学校には現地の人は通わないしなかなか現地の友だちって作りにくいです。だいたい、日本で人気の留学先は日本人がいっぱいすぎて、日本人のいない環境を探す方が大変です。

 

そう言うことに気づいたころ、何としても日本人のいない環境に入らねばと思って知恵を絞りました。日本人がいない職場に就職するというのも目指して、就職活動もしましたが英語がまともに話せなくて、就労ビザを持っていない外国人が普通の企業で働くというのは、メチャクチャ 難しいです。努力は続けますが、それ以外の方法も同時に考えました。

 

最初に発見(?)したのが、ボランティア。

ボランティア団体の多くは誰でも受け入れてくれます。私は海難救助のボランティアをすることにしました。資格が必要なのですが、そのボランティア団体が毎週2日勉強会を開いてくれているので、半年通いました。もちろん、言葉のハンディがあり、かなり補習をしてもらいまくったのですが、最終的には資格取得でき、友だちもたくさんできました。当時、シドニーで唯一の外国人有資格者として、ちょっと有名になれました。

ちなみに、この資格取得についてはNHKのドキュメント番組が作られることになり、取材班が2週間くらい滞在してました。これについては、山ほどエピソードがあるので、また別の機会に書きたいと思います(一番面白い話は、とてもここには書けないので、酔っぱらったときに聞いてください(笑))。

 

英語学習と友だち作りの話に戻すと、もう一つ実行したのが、宗教団体です。私は特に信仰する宗教はないのですが、いくつかの宗教団体では、毎週お祈り(?)をしてその後交流会みたいなことをやっていたり、移住者向けの英語の勉強会みたいなものを開いているところがありました。狂信的なところではなく、特に強く勧誘されることもないところを選び、通いました。(恐らく神の教えとして)そういう所の人たちは、新参者にもとても気さくにかつ、やさしく接してくれるし、たくさん話をしてもらえるので、英語の勉強にはとても役立ちました。

 

もう一つ、無料でできたのは大学の日本語を専攻している学生に交換レッスンを申し込む(チラシを作って大学に貼ってもらう)ことをしました。カフェで会って、1時間日本語で会話をし、1時間英語で会話をするというものです。これも、いろいろとても楽しかったです(笑)。

 

他にもいろいろ考えて実行しました。

 

これら全てほとんど無料ですし、普通に英語学校に通うよりずっと得るものが多かったです。

私が学生に「若いうちはとにかく貧乏になれ」と言う理由のひとつは、これです。お金があって普通に英語学校に行けてしまったら、私はこんな面白いことを考えることもなかったし、実行して、多くの経験や友だちを得ることもなかったでしょう。お金がないと人は知恵を出す癖がつきます。

 

 

意表を突く

帰宅したら、去年頑張った試験の合格通知が届いてました。

なんて冷静に書いている場合でなく、小躍りするほど本当にうれしいのです。

資格というのはキャリアカウンセラーの資格です。もちろん、私の場合、資格を取得して転職しようとかいうことではありません。会社で必要な資格ではあるけど自分で取る必要もないといえばない(誰かに取ってもらえばよい)です。

でも、思うところあって自分で取ることにしました。最大の理由は一生懸命勉強して資格をとってみたかった。数日間の勉強ではなく、半年以上必死に勉強しなければいけない、これまでの私の人生最長の受験勉強に今更ながら挑戦してみたかったということです。

1次試験前は、現在の環境の中ではこれ以上勉強できない限界まで勉強しました。明けても暮れても、照っても降ってもひたすら勉強してたので、試験はものすごく落ち着いて受けることができました。これで落ちるとしたら私には絶対に受からないだろうという開き直り的な落ち着きです。試験開始と同時に最終の論述問題を確認し、その瞬間「絶対に1次試験は合格する」と確信しました。ヤマが当たった出題でした。

1ヶ月後、予想通り1次試験の合格通知は届きました。

2次試験は1ヶ月後です。

1次試験ではできうる全ての対策を取って、人生で最高に集中して受験勉強して突破したのだから、2次試験(実技)は一切対策をせずに挑もうと決めました。

なぜ、そんなことをするのか?

私の人生のテーマは「意表をつく」こと。誰もが予想しない行動を取ること。

学生の頃一度もちゃんと受験勉強しなかった私が40歳を超えて、学生以上に必死に受験勉強する。多くの人の意表を突いたと思います。
そうなると、それだけ頑張って突破した1次試験を無駄にしないために、2次試験もあらゆる労力をかけて挑むだろうと誰もが予想するところです。
そこで意表をつくために、一切の対策をせず試験に挑む。自分のこれまでに養ってきた実力で勝負!と、思っちゃったんだから仕方が無い。

2次試験当日、会場控え室に到着してまず驚いたのが、私以外の受験者(実技試験なので同時に受けるのは9人)が全員スーツを着ていたこと。私は普段仕事をしている格好(一応シャ

ツとスラックスではありました)。隣の人に「今日はスーツじゃないとダメなんですか?」と聞いたら「いや、そういう訳ではないと思いますが、試験対策講座の時にスーツで行くように言われたので・・・」と言われ、もしかして私以外全員対策講座に行ったのか。。。ちょっとビビりましたが、逆にこれで合格したら面白い話ができるなぁとワクワクもしました。

確か1次試験の勉強した中に、カウンセリングの準備として、クライアントがリラックスして話せる雰囲気を作ることが謳われていたので、カチカチのスーツよりも落ち着くクライアントもいるだろうと、勝手に解釈して試験に望みました。

 試験内容については口外できないので、書きませんが、とにかく普段の自分をそのまま表現できて、ロールプレイ後の質疑応答も最高の対応ができました。これまでも仕事上で数多くのプレゼンをしてきましたが、質疑応答は結構自信があります(笑)

いずれにしても、こんな偉そうなことを書けるのも、結果として合格できたからです。不合格だったら意表をつくも何も、ただの努力を怠ったダメな人になってしまうところだったので、だからこそ合格して本当にうれしいです。

ちなみに、合格率は

1次試験:49.1%
2次試験:48.1%

でした。単純計算で24%以下の合格率です。結構な難関でした。

今晩だけはちょっと浮かれて、プロテインの祝杯を上げたいと思います。

意表を突けたことに乾杯!

【20代の頃】シンガポール空港で2日生活(1995年2月12日〜13日)

1992年から1996年まで主にシドニーで生活していましたが、途中で一度ビザが更新できず日本に帰ってきました。そのあと、無事ビザが取得できて、オーストラリアに戻る時の話です。

 

2月12日に一旦入国しかけたが、トランジットエリアの方が滞在しやすそうだったので直ぐに戻った為、VOIDスタンプを押されましたシンガポール航空の往復オープンチケットをシドニーで購入して日本に滞在していました。オープンチケットは、有効期限内ならいつでも使えるチケットで、希望日のフライトを改めて予約をして始めて飛行機に乗れます。いつでも乗れるのですが、逆に言うとフライトの席が空いていないと乗れないこともあります。

ビザがなかなか下りず、毎日ドキドキしながらバイトに勤しんでいました。チケットの有効期限が迫ってくるとだんだん焦ってきます。結局、チケットの有効期限1週間前くらいにビザがおり、オーストラリアに戻れることが決まりました。

直ぐにシンガポール航空に電話してフライトの予約をしようとしたのですが、満席で取れません。名古屋からシンガポールまでは空いているのですが、シンガポールからシドニーまでが空いていないのです。

3日ほど待っていましたが、予約は取れず、このままチケットが無効になるくらいなら、とりあえずシンガポールまで行ってしまおう、チケットを買い直すにしても、名古屋からよりもシンガポールからの方が安いだろうし。 と思って、シンガポールから先のチケットの目処が立たないまま、シンガポールに行くことにしました。

 

シンガポール空港はとても大きな24時間オープンしている空港です。空港内に宿泊施設などもあるので、お金があればずっと滞在することも可能です。もちろん、空港を出て、観光したり街のホテルに宿泊することもできましたが、いつまで滞在しなければいけないのかわからないし、1ドルでも余分にお金を使いたくなかったので、空港内に留まり、ホテルも使わずベンチなどで寝て過ごすことにしました。

未明に空港に着いたら直ぐに、シンガポール航空の窓口に行き、シドニー行きのチケットのキャンセル待ちリストに登録しました。窓口の人に聞いても、今日は無理だろうと言われましたが、万が一の可能性にかけて、暇さえあればシンガポール航空の窓口に来て、キャンセルが出ていないことを確認してました。

 

2日後にはオープンチケットが無効になってしまうので、そうなれば新しくチケットを買わなければいけません。

退屈しのぎに、広い空港内をあてどなく散歩したり、店をのぞいたり、飛行機を見たりして、空港窓口に戻りキャンセル待ちの確認・・・を繰り返していました。もう一つ、一縷の望みとしては、シドニーにいた頃にバイト先で知り合ったシンガポール人留学生から届いたポストカード。そこに書かれた電話番号に、電話をしてました。その電話は何度かけても留守番電話だったので、もう引っ越したのかもしれません。 なんせそのポストカードをもらったのは、彼女が留学を終えてシンガポールに帰国した直後、つまり、1年以上前で、その後、なんの連絡もとっていなかったので、就職が決まり引っ越した可能性は高いです。今だったらメールだとかFacebookで繋がり続けることができたでしょうが、当時はエアメールですから、よほど強く繋がり続ける気力がお互いにないと繋がり続けられませんでした。

とにかく、その日は何も変化がないまま夜になりました。夜も更けるとさすがに空港内の店も多くが閉まるので、あまり明るくないけど、それなりに安全そうなベンチで、荷物を抱えて仮眠を取りました。

思いの外、爆睡してしまい気づいたらすっかり朝で、結構な人がベンチ前を行き交うようになっていました。幸い何も取られたりはしてませんでしたが、早速、シンガポール航空の窓口に行き、キャンセル待ちを確認しましたが、返事は変わりません。

ダメだとは思いましたが一応、「明後日にはチケットが無効になってしまうので、何とかならないか」と懇願してみましたが、 席がないのだからしかたがないだろうと言われ、まだまだ先の見えないシンガポール空港生活が続きます。

おいしくない朝食を食べたあと、念のためもう一度、友だちに電話をしてみることにしました。

何度も聞いた留守番電話の自動応答メッセージ、それも本人が録音したものでないので、もしかしたら、全然知らない人の家にかけているのかもしれない。その可能性が高い。でも、誰か別人が出て「そんな人知らないよ」と言われるまで、かすかな希望の電話をかけ続けました。すると、

「Hello」

機械でなく、人間の声!!しかも聞き覚えのある声!

全身の力が一気に抜けました。。。相変わらずの彼女は、シンガポール航空に就職したこと、CAとしていろいろな国に行けて楽しいということ、CAという仕事は生活リズムが無茶苦茶になること、今回も深夜のフライトでさっき戻ってきたばかりだということを、一気に話したあと、やっと、

「ところで、あんた何処で何してんの?」

と聞くので。昨日の朝からシンガポール空港で、キャンセル待ちしながらボーッとしてることを話すと、信じられないと超驚きの声を上げて、直ぐに来てくれることになりました。

30分足らずで彼女は到着し、久しぶりの再開を喜びつつも、まずは直ぐに一緒にシンガポール航空の窓口に行きました。それまでずっと「全く席は無い」と言われ続けた窓口で、彼女がIDカードを見せながらなにやら軽く交渉すること1分、振り返った彼女の台詞に、また力が抜けました。

「どの便でもいいよ。どれに乗る?」

さっきまで空きは無いって言ってたのに・・・・。

ここまで待ったのだから、何時間か遅くなっても何も問題ないので、その日の最終便に予約を入れてもらいました。

それから、気を取り直して、まずは空港内の最高級レストランで、いろいろ思い出話などをしながら、のんびり朝食。

同じ空港なのに、数時間前までと全く景色が違います。人間は目ではなくて心で物を見るのだと言うことを体感しました。

 

その後、荷物を、シンガポール航空の窓口で預かってもらって、初めて空港の外に出て、無事シドニーに行ける喜びをかみしめながら、楽しい1日を過ごしました。

1年ちょっと前には同じレストランでアルバイトしていた彼女と私。

1年半前と同じように楽しく、くだらない話や、若者らしい初心な夢の話などをして、とても、楽しい1日となりました。

でも、私は相変わらず夢探しの途中で、自由気ままに生きているのに対し、彼女はひとつの夢を掴んでCAになり、私が何度頼んでも取れないチケットを簡単に取ったり、高級レストランで食事をしたりするような立場になっています。

少しは嫉妬っぽい感情も湧きましたが、当時、根拠のない大きな自信を持っていた私は、悲観しすぎたりすることもなく、自分ももっと行ける。こんな優秀な人と友だちになれるくらい何だから。なんて思ってました。

 

いずれにしても、彼女には本当に本当に助けられました。

それだけでなく、彼女の頑張りに大いに励まされ、さらに強い決意を新たにシドニーへ行くことができました。こういう人の繋がりが私の最大の財産だと言うことも強く感じたシンガポールでした。

 

2011年の振り返り

今年も残り1日、今年を軽く振り返っておきます。

今年はここ数年で一番、新しいことに挑戦した年でした。去年40歳になり、いよいよ人生も後半に入った感じで、いろいろな意味で衰えが出てくる年ですが、去年よりもずっと若返った年でした。

■人生で最高の勉強

資格取得のために、生まれて初めて(笑)数カ月にわたって本気で勉強しまくりました。最終発表は来年ですが、10月の一次試験は合格しました。人生ではじめて猛烈に受験勉強をした年でした。

■人生で最高の身体性能

体力的には、密かに続けている(?)トレーニングで、広背筋、上腕三頭筋、ヒラメ筋、ハムストリングスなどを肥大化しました。ウエストは18歳以降最細の73cmにしぼりました。体型的には人生で最高レベルに達しています。

水泳はレースに出ていないので、公式な記録は伸びてませんが、練習は100mを1分30秒サイクルのインターバルで8本を1分15秒以内で泳げるようになったり、50m×60本を50秒サイクルという練習は、一か八かでやる練習ではなくて、メニューを考えるのが面倒なときに普通に回るメニューになりました。こちらも人生で最高レベルに達しています。

■人生で最高の充実感

心の充実感も最高レベルの年でした。これまでも決して充実感、満足感が低かったわけではありませんが、今年は特に充実感が高かったです。これまで自分の子どもとただ楽しくて関わっていたことが、いろいろな所で、多くの人に共感してもらえたり、参考にしてもらえるようになったことが、とても嬉しかったです。

■不惑

ここ数年、なんとなく自分の人生について迷うというか考えることがありました。会社が十分な利益を出せてもいないし、自分も含め社員には十分な給料を払えていないし、不安定でもあります。多くの優秀な先輩達だけでなく、多くの後輩たちと比べても自分の社長としての努力と成果の少なさを感じて悩みました。

しかし、今年に入り、会社で実施ている職業訓練の関係で、ワークライフバランスや、キャリアについて学術的に勉強したり、さまざまな人とのかかわりの中で、「働く」「仕事」「キャリア」「人生」などを、深く考える事が出来ました。

自分の位置、役割、社会に対しての貢献、価値などを改めて考えることで、自分の決めた道に迷いがなくなった年でした。

もちろん、全てにおいてまだまだ努力が必要だと思います。もっともっと、自分の能力を高めて、少しでも多くの社会への貢献してゆきたいです。

私にとって、最も身近で重要な「社会」は、「家族」であり、まずは、家族が笑っていられることが最大の目標です。

その為にはそれなりの収入も必要なので、それなりに会社も利益を出せるようにならなければいけないし、その為には社員の人たちが、喜んで自分の能力を発揮できる環境や、権限委譲をしなければいけないし。もちろん、それに見合った待遇も。 


■人生は青天井

いずれにせよ、今年、年齢的な限界というのが幻であることを体感、実証できたので、来年は更に猛烈に体と頭を鍛え上げ、ますます「年甲斐もない」ことをやってゆきたいと思います。

それが、これから先の人生でずっと、体力的にも脳力的にも心の充実感的にも人生最高潮を更新し続けてゆく秘訣かと思います。

今年も、本当に多くの人に助けられながら、素晴らしい最高の1年を過ごすことができました。本当にありがとうございました。とてもとても幸せいっぱいであることを家族と一緒に感謝しながら、新年を迎えたいと思います。

皆さん、今年1年、本当にありがとうございました。