無条件に尊重して受け入れてもらえることで、自分らしさを出せる人に育つ

世の中の多くの人は、ものすごく我慢して、頑張っています。

それは、良い意味も悪い意味も含めます。

結婚してから妻に「それが普通、あなたが特殊」と何度も言われて、何となく分かって来ました。

私は、自分が嫌なことでは我慢もしないし、頑張りません。そもそも、嫌なことはやりません。

心を病んでしまうほど頑張って働いてしまうことが私には理解できませんでした。そんなに苦しい職場なら辞めてしまえばいいのに、と思っていました。しかし、実際多くの人は、そんな状況でも仕事を辞められません。

理由を聞くと、収入がなくなっては困る、などの表面的なことを挙げる人が多いですが、実際にはその裏に、その人の価値観があります。

  • ◯◯歳にもなって失業なんて恥ずかしい
  • 逃げ出したら会社の人に笑われる
  • 世間体が気になる

などです。これは一言で言えば人によく見られたいということです。なぜ人によく見られたいのかというと、良い人でないと認めてもらえない、とか、良い人でないと価値がないと思っているからです。

そういう価値観により、「良い人」でないと思われるような行動を取れないのです。そもそも「良い人」という定義もその人の価値観なので、絶対的なものではありません。

そのような価値観を形成するのは、子供の頃の親の接し方が大きく影響しています。子供の頃に「良い子でいなさい」という親からのメッセージが強すぎると、「良い子でいなければいけない」「良い子でないと親に認めてもらえない」と感じ、良い子を演じ続けることになります。その後、親の考える「良い子」が、世間が考える「良い人」に変わりますが、自分の考えよりも人の目を気にするようになります。

他人の目をあまり気にしない人は、おそらく子供の頃に「良い子」でなくても大丈夫というメッセージを親から十分に伝えられたのだと思います。

「良い子」であればそれはよいのだけど、でも仮にそうでなくても、あなたは価値のある存在である。親は子どもにそういうメッセージを伝える使命があると思います。子どもの、ありのままを尊重し、ありのままでも価値がある存在なのだと。

このようなメッセージが心の奥深くに届いて育つと安心して自分らしい生き方ができます。

逆に、良い子を演じることで愛されると思いながら育った人は、大人になっても、良い子、良い人を演じ続けなければ、自分の存在が認めてもらえないと思い、頑張りすぎて、ひどい場合、心を病みます。

良い人でなければいけない

そう考えるのは社会生活を送る上で必要なことですが、それが強すぎるのは弊害があります。それが、頑張りすぎることだったり、人生が辛く苦しいものになることです。

全ての人は、それだけでも十分に価値のある存在です。大人も子どもも、それを家族から十分に感じられれば、もっと人生はラクになり、楽しくなると思います。

四日市の子育てマイスター制度

四日市市では、昨年から父親の子育てマイスター制度という、育児に積極的な父親を認定する制度があります。全6回(去年は5回)の講座を修了すると認定されます。

このような制度は、他の地域でもあると思いますが、四日市市のスゴイところは、この子育てマイスターに選ばれた人が、パパサークルを作り積極的に、いろいろな所で活動しているところです。活動は行政主導というか、公的なイベントを積極的に行い、そこで子育てマイスターの人たちが活躍し、活動が広がってゆくようになってきています。

今年は特に最初の年でもあり、かなり注目されて、マスコミなどでも多く取り上げられています。

行政が主催する父親の子育て系の講座やイベント自体は、最近よくあります。でも、それをキッカケに継続的に、活動が広がっていく仕組みは、まだまだ少ないと思います。少なくとも私の知っている限りでは。

ぜひぜひ、私の住んでいる岐阜県、土岐市、多治見市でもぜひ、そういう制度を作ってもらったらよいのに、と思います。

褒めて育てる?叱って育てる??

子育て本には、よく「子どもは褒めて育てよう」と書かれています。

でも、褒めるばかりでは弊害が出る場合もあります。

 褒められるために行動をするようになってしまうからです。

言い換えると、褒められないと行動しない子どもになってしまいます。褒める人が見ていないと行動しない。

もちろん、叱って育てるのもよくありません。叱られないために行動したり、行動を起こさないようになるだけです。叱る人がいなければ悪いことでもやったり、やらなければいけないことをやらなかったりするようになります。

では、どうすべきかということなのですが、私は「喜んで」育てるというのがよいのではないかと思います。つまり、お手伝いをしてくれたら「褒める」のではなく「喜ぶ」。

「いい子だね」

ではなく

「うれしいよ」

と言う。そうすれば、誰かに褒めてもらうために行動をするのではなく、誰かに喜んでもらうために行動をするようになると思います。

誰かに喜んでもらうための行動は、誰が見ているとかに関係なく行われるし、自分がやったよと主張することもないと思います。

そんな風になってもらうために、親としては「どんなことをすると人は喜ぶのか」を正しく教えることが重要で、その為に正しくかつ上手にその感情を伝えるのがよいと思います。

・・・と、なんか子育て論的になってしまいましたが、そう思って、そう出来るように日々努力しているよ、という意味です。「分かること」と「実行できる」とは別ですので。全部できているわけではありません。

普段、偉そうなことを言ったり書いたりしておりますが、全て実行できているわけではありませんので、ご安心(?)下さい。

終わりのないマラソンレース?!

先日、名古屋でハタモクという会に参加してきました。

社会人と大学生が一緒に「働く目的」などについて、語り合って考えあうという集まりです。

いろいろな話ができて、私自身多くの気付きができました。

その中で、一番印象的だったのは、ある大学生の、「働く」ということに対するイメージ。もうすぐ就職活動を始めるという彼女は、働くことを

「終わりのないマラソンレースみたいなもの、と考えている」

と言いました。学生というのは、3年とか4年とかで区切られていて、終わりがあるが、社会人になって働くというのは、終わりがないと思っているとのこと。

いろいろな思いが混ざってはいますが、どちらかというとネガティブなイメージを持っているようでした。つまり、辛くて長いレース、しかも、終わりがわからない。

さすが、超就職氷河期を生きている学生というか、大学に入る早々、就職は大変だから頑張れ!と言われている学生らしい考え方だなぁと、思うと同時に、もしそんな風に「働くこと」や「社会人になること」を考えていたら、辛いだろうなぁとも思いました。

確かに人生はいつ終わるかもわからないし、終わるまでずっと頑張って走り続けなければいけないマラソンレースなのかも知れません。

しかし、私自身はこれまでの20年超の社会人ライフは、そんなに辛くて苦しいものではありませんでした。これからも、たぶん、楽しくと面白いと予想してます。

なぜか?

私は、他人が設定したゴールを目指したり、ゴールを探したりせず、好きな道を走っているからです。ペースを緩めたり、速めたり、たまには止まったり、一緒に走るパートナーを見つけたり、道端の石を拾ったり、投げてみたりしながら、曲がり角が来たら、楽しそうな道を選んで走っていると考えています。

特に行き先(ゴール)は決めず、その時、見えている景色や、走っている感触を楽しみたい。敢えて言えば走っていることそのものが目的(ゴール)なのです。

行き先を決めていないので、どこで曲がろうが、休もうが、それでよいのです。

だから、終わりのないマラソンレースでも楽しかったし、これからも楽しいのではないかと予想しています。

こんな力の抜けた人生では、大成するのは無理かもしれません。そして、20代の若者なら大成することを目指して頑張るべきなのかも知れません(私自身、20代の頃はもう少し頑張ってましたし)。

でも、世の中の多くの社会人が学生に対してのメッセージとして「甘くないぞ」「つらいぞ」「頑張らなければいけないぞ」ということを発信しているので、一人くらいは違うことを言ってもよいかとも思って、他の場でも学生に話してます。

社会に出る前の学生にとっては、もちろんですが、社会人にとっても、改めて「働く」という意味を考えることができる「ハタモク」オススメです。また、名古屋でも1月に開催されるそうなので、興味のある方はぜひどうぞ。

そこへ行く道はたくさんある(多様性)

最近、人前で話をする時の口癖(?)としている

「そこへ行く道はたくさんある」

先日の岐阜大学でも、強調しまくったので、1ヶ月経ってもちゃんと学生たちは覚えていてくれました。

私の信条の中で、一番譲れないことは「多様性」です。人と違うことを認めること。逆に、私にとって、同じであることを強要されるのが最も受け入れ難いことです。

人と同じ道を歩かず、違う道を見つけることに喜びを感じ、底を通ることがとても楽しいです。遠回りも大好きです。

そこへ行くには、この道を通ってゆけば一番安全で早く確実に行けると誰かに言われても、そして、それが正しくても、私は山の中の草木をかき分けながら、そこへ行きたいのです。

もっと言うと、そこへ行くことよりも、そこへ行こうとしていることそのものが目的であったり楽しみであったりします。

人生の目標はあります。でも、いろいろ寄り道をしながら、道を歩いていることが楽しい。

もし、もともと思っていたところと違うところに到着しても、結果オーライ。

もし、もともと思っていたところに到着できなくても、結果オーライ。
既に、楽しい経験を得ているのだから。

そんな風に考えています。これに共感してもらえる人がいたらうれしいですが、もし、「私はそうではなく目標に向かって一心不乱に突き進むのだ」と言う人がいても、私はその考え方を否定もしないし私の考え方を強要もしません。それが、私の絶対に譲れない「多様性」ということです。