やっぱり英語よりも日本語教育が重要だと思います

一応IT系の仕事をしているので、IT系の説明をする機会もすくなくありません。

(私も含め)技術者が説明するときに問題になるのが、専門用語の連発や、難しい言い回しを使ってしまうことです。普段技術者同士の会話で無意識に使っている言葉を、そのまま業界外の人にすると、理解されにくいです。

 

私の場合、そういう失敗を減らすために行っているのが、妻への説明です。全く技術に疎い妻を相手に、ちゃんと理解してもらえる説明ができれば、技術的前提知識が無い人でもちゃんと理解してもらえることの証明になります。

 

お客さんに説明する内容を妻に聞いてもらい、理解できなければ、何がどう理解できないのかを聞き、その部分を修正します。

 

ただし、最近気づいたのですが、話を理解できない人は、単に説明者の説明方法が悪いだけではないということです。その場合の原因は、

  1. そもそも理解しようと思っていない(自分の担当外だからと言って思考を拒絶する)
  2. そもそも日本語の理解力が乏しい

1については意識改革でなんとかなります。30歳からでも、40歳からでも大丈夫です。常に当事者意識を持って聞いたり、考えたりできるかというのは、その人の人間性を高めるのにとても重要な要素です。会社の社員が当事者意識を持って、創意工夫や努力をしている会社は伸びます。

向上心を持って生きている人は、ドンドン成長できますし、そう言う人がいる会社もドンドン成長します。

 

ただ、2については、小学校くらいから訓練していないと厳しいです。やはり、英語よりも日本語教育を充実させることが重要だと思います。

一番辛かったのはいつですか?それをどう乗り越えましたか?

先週、岐阜大学で開催されたG-netインターンフェアに参加しました。

大学生と話をするのは、いろいろな意味で楽しいです。ブログでも何度か書いていますが、自分自身の(良い意味で)若くて、野望に満ちて、トントンに尖っていて、無謀で、無茶していた頃を思い出させてくれて、初心に戻ることができます。

 

それ以外に、今回気づいたのが、学生に話をしながら自分自身に言い聞かせているようなことがよくあるということです。

もちろん、学生のためになるようにと思いながら、話をしているのですが、それは学生達が40歳くらいになったときに気づくことなのではないかと思うことがあります。

例えば「家族、友達、その他全ての人に感謝の気持ちで何事にも取り組もう」というようなことを言ったりします。

実際、これは正しいことだと思います。しかし、私が20歳くらいの頃、そんなことを考えていたかというと全くそんなことはありません。自分のことしか考えていなかったし、周りの人をけ落としてでも自分が上に上がろうと思っていました。
とても生意気な若者だったので、かなりいろいろなところで叩かれたりもしました。しかし、そのおかげでがんばれたのです。

偉そうなことを言った手前、投げ出すことはできず、がんばれたと思います。

今は、20歳くらいの頃に比べればずっと、家族、友達、その他全ての人に感謝の気持ちを持って、生きています。まだまだ足りませんが、足りないことに気づいています。

私より、もっと人間的に立派な人であれば、20歳くらいからある程度、高貴な理由や目標を持つこともできるかもしれません。でも、やはり人間には、年齢に応じてやるべきことがあり、若いうちというのは、生意気で無謀で孤高な生き方を目指すべきなのだと思います。

 

さて、先日学生に聞かれた質問で、一番印象深かったのは

これまでの人生で一番辛かったのはいつですか?それをどう乗り越えましたか?

です。この質問を受け、考えたのですが、もちろん、辛いことはたくさんあったのですが、それほど覚えていないというのが正直なところです。私の脳はものすごく都合良くできていて、イヤなことや辛いことは直ぐに忘れ、楽しかったことなどは良く覚えているので、思い返すと楽しかったことばかりなのです。

ただ、それでは学生が求めている答えではないので、一生懸命辛かった時を思い出しました。

一番辛かったのは、オーストラリアに渡って半年位したとき、目標がなくなったときでした。信頼していた友達が去り、思っていたほどオーストラリアの生活も楽しくなく、かといって「これをしよう」という目標もなく、なんとなく毎日を過ごしていた頃、将来に対してはとても不安があり、辛かったです。

目標に向かってがんばれているときと言うのは、経済的に苦しくても、体力的にきつくても、平気です。一番辛いのは目標を失ったときです。

 

そのとき、どうやって乗り切ったのか?

妄想です。意味もなく、空港へ行って飛行機が飛んでゆくのを見ていました。自分があの飛行機に乗って、どこかへいってしまったら、そこでどんな生活ができるだろう? とても幸運にも大富豪と仲良くなり、プリティウーマンのリチャードギアみたいな仕事と生活をしていると、幸運にもジュリア・ロバーツみたいな人と出会って・・・

また、ノースヘッドという断崖絶壁に行って、波を見ていました。そう言う物を見ながら、自分がスターチャイルドとなって宇宙を漂いながら、地球を眺めたら・・・

なんて妄想をしてました。そのうち小さな目標を見つけ、少しだけ日々の生活が意味のあるものになり、良い出会いもあって、一生の目標を得ることができました。

 

何となく、学生達が求めているような答えではなかったかも知れませんが、事実なので仕方ありません。

 

そんな話をしながら、「最近つらいなぁ」と思うことがあるのですが、よく考えれば目標を失ったときよりはマシか、と思い直すことができました。

「家族全員が健康である」これ以上の幸せはありません。

もし、家族の誰かが病気にでもなったりしたら、どんな良いことが起きても幸せではないでしょうし、それに比べれば、辛いと考えていることはとても小さなことだと思えます。

 

20歳くらいの頃には、全く意味が理解できませんでしたが、今は心から「健康」に感謝できるし、家族の健康が最大の喜びです。

シーシュポスの山

秋も深まり、我が家には猛烈に落ち葉が降り続けます。

 

休日、家族全員で庭掃除。

30分も頑張れば、大きな山がいくつもできます。

しかし、集めているそばから、どんどん新しい落ち葉が降り積もり、山ができた頃には、また庭は一面の落ち葉・・・。

 

気を取り直して、もう一度、掃除開始。さらに大きな落ち葉の山ができあがり、ほっとしたときに、強風が落ち葉の山を吹き飛ばします・・・。

 

もう一度、気を取り直して、落ち葉を集めると、近所の山から落ち葉が乱舞しながら落ちてきて・・・

 

この落ち葉の山、シーシュポスの山です(笑)

 

永遠に進展のないシーシュポスの罰は、山に岩を転がしながら登ると、山頂付近で、岩が麓に転がり落ちる・・・これを永遠に繰り返すという、ギリシア神話です。カミュの不条理の世界です。

20年近く前に、(格好つけるために)カミュを読みあさりながら、不条理についてずっと考えていました(笑)

 

ちなみに、近隣の山の木々や、突然の風など、自分でコントロールできないもののために、自分の運命が決められるような不条理も、落ち葉が自分の所有物であり、自分自身を自分が知ることで、運命は自分のコントロール下に入り、自分も幸せになるのです。

・・・なんて、話すと女の子にもてると思って、悦に入ってましたが、20年間、こんな話をしてもてたことはありません(笑)

ただし、もてはしなかったけど、不条理についての自分なりの答えは持て、落ち葉が永遠に片付かなくても幸せになりました。シーシュポスと同じように、落ち葉を掃きながら実は微笑してます(笑)。

政権交代の影響

夏の選挙で政権交代が起きて、本格的に民主党の政策というか政治が始まったわけですが、いろいろなところに影響が出てきています。

 

もちろん、国民が「一度、民主党にやらせてみよう」と言う意思を示した選挙結果に基づいた改革であるし、これまでの無駄な出費を根本から見直すことができるのも政権交代があったからこそです。

 

そう言う意味で、一国民として中長期的には、国がよい方向へ向かっていくのだと信じて、ある程度、現在のごたごたは容認しなければいけないと考えています。

しかし、変革のために一時的な停滞だったりゴタゴタによって、中小企業に危機的な影響を及ぼしかねない事態も起きています。

無駄だと言うことで、予算停止されてしまった補正予算の事業。確かに無駄かも知れませんが、その無駄な予算により、とりあえず今年の売上げを確保できて事業継続の見通しを立てていた中小企業が、予算停止により急に不安な日々を迎えたりしています。

来年度も実施されることを見越して準備していた、転業(新規事業参入)が、事業仕分けで「廃止」と宣告され、来年の事業計画を大幅に見直さなければいけなくなった中小企業もあります。

 

財務基盤の弱い中小企業にとって、ちょっとした予算の配分変更や、時期の変更で、下手をすると倒産します。それくらい深刻な問題を孕んでいます。

 

もちろん、無駄だから廃止や削減をするのでしょうが、その無駄な事業によって、経営が維持できていた中小企業、そして、そのおかげで雇用が維持できていることも、無駄の削減をすすめている中では認識をしていただきたいです。

 

年末に向けた中小企業支援は、多くの中小企業にとって死活問題となります。是非とも早急に支援策を大きく発表し、少しでも中小企業に関わる人たちの気分の落ち込みを止めて欲しいです。そうすれば、必ず消費も回復します。

インターネットカフェ

18年ぶりにインターネットカフェを利用しました。

当然ながら18年前とは何もかも違います。

 

18年前は、一般家庭にインターネットがほとんどなく、インターネットというものを使ってみたくて(当時住んでいた)シドニーのインターネットカフェに入りました。そのとき初めてアクセスしたのは小学館のサイトでした。たぶんアナログモデムで接続されている、今から思えば超低速のインターネット環境でしたが、上から少しずつページが表示され、ドラえもんの画像が出たときには、かなり感動しました。

今では当たり前ですが、当時はシドニーにいて日本の情報を得るのは、何日か遅れの新聞や、何週間か遅れの週刊誌などでしか日本語の新しい情報を得る手段がなかったので、パソコンでそれができる、しかも低価格で、というのには、本当に衝撃でした。

 

それから18年経ち、今では大半の情報はインターネットから得るようになり、コミュニケーションの大半もメールなどで行うようになりました。私に必要な情報をとるだけでしたら、別にインターネットカフェに入らなくても、iPhoneでいつでも、どこでも可能になりました。

さて、今回のインターネットカフェ利用の最大の目的は、最近のインターネットカフェというものを知ること。昨年末くらいに、ネットカフェ難民なんて言葉が出てきて、現在の日本社会の影の部分のような感じでとらえている人も少なくないと思います。

そんなインターネットカフェってどんなものなのか見てみたいと思っていました。今回、久しぶりの東京出張で、前日に移動したので早朝から午前の最初の打ち合わせまでの間、ネットカフェに滞在することにしました。

 

正直、驚きです。初めてインターネットカフェでインターネットを使った時の驚きとはまったく違いますが、至れり尽くせりのサービスや環境に驚きました。

ネットカフェ難民の人たちって、こんな快適なところで生活できているのかとも驚きました。私が極貧生活を送っていたころの生活環境を思えば、冷暖房は完備され、テレビやインターネットや漫画は見放題、飲み物も飲み放題、朝なんか、トーストまでサービスされてたり・・・。
シャワーもあるし、とてもすわり心地のよいリクライニングシート・・・。とても快適です。

 

もちろん、ネットカフェ難民と呼ばれている人たちの問題は、生活環境ではなくて、住所不定で就職できないとか、将来に対する精神的不安であったりするので、ネットカフェ難民になりたいというわけではありません。

 

ただ、一時滞在用としては、とてもよい場所だと思いました。

今度出張のときは、ホテルじゃなくて、ネットカフェに宿泊してみようと思います。