今朝のPAL研究会の朝食会(勉強会)は、SMCグループの曽根先生が講師で「創業百年企業をつくろう」というテーマでした。
その中で、会社の存在意義、個人の存在意義についての話も出てきました。会社の存在意義はともかく、個人の存在意義というのは、なかなか難しいテーマです。経営と言うより哲学的な話になります。
曽根先生の話としては、会社の存在意義と個人の存在意義は全く別であり、会社が残念ながら無くなることになっても、個人まで無くなることはあってはならないということでした。会社が倒産して、自宅も取られ、自殺をするなんていうのは、もってのほか、ということです。全く同感です。
それを実現するためのテクニック的な話が、今回の勉強会のテーマで、とても勉強になりました。
しかし、改めて個人の存在意義について考えてみると、一言で言うのは難しい事柄です。曽根先生が、人間としての義務と言われた「命の継承」ということは、私も以前からそう思って生きています。人間としての義務と言うより、「生物としての義務」だと私は思っています。数十億年前から、生物は自分の遺伝子を次の世代に伝えるために生きていているという考え方もあります。
最低限、命の継承(遺伝子の伝承)をすることは、生命としての義務だと思います。
この義務を果たしやすくするために、本能的に子どもが可愛くて愛おしく感じるように脳はできています(神様はよく考えて作ってます(笑))。
そこで、経済的余裕のある人は、多くの資産を子どもに残してしまう失敗をします。
「自分が経済的に苦しかったから、子どもにはお金で困らないようにしてやろう」
と考えてしまうのだと思います。これは大きな間違いです。
程度の問題もありますが、私は子どもには資産を残すべきではないと考えています。社会人になるまでは子どもの望む教育を受けさせられるだけの資金提供はしてあげるべきだと思いますが、それから先は基本的に大きな資金提供はすべきではないと思っています。
なぜ、そう思うか?
私自身、親が資産家でなかったことで、得られた喜びや幸福感は、とても多いからです。
もし、親が裕福で、私がオーストラリアに行くときも豪勢な留学などしていたら、あんなに貧乏で、無茶苦茶で、刺激的で、楽しかったオーストラリアの生活はできなかったでしょう。
もし、親が裕福で、私が事業をするときに数千万円とか出資してくれたりしていたら、こんなに一生懸命会社が生き残るためにがんばれなかったでしょう。仮に、ちょっとうまくいったら天狗になり、とんでもなくいやな人間になっていたでしょう。
もし、親が裕福で、私が自宅を買うときにお金を出してもらっていたら、今のような水道も無い山奥のボロ家に、魅力を感じて毎日楽しい生活を送ることはできなかったでしょう。
もし、親が資産家で、自分がその資産をもらえると思っていたら、今のような幸福感に満ちあふれた人生は送れていなかったと思います。
これは、私が人間的にレベルが低いから、という理由もあると思います。人間的レベルの高い人であれば、例え親からたくさんの資産を継承しても、慎ましく幸福な人生を送れる人もいると思います。しかし、ニュースになるような遺産相続でのどろどろの身内の争いを、見る限り、そんなに人間的レベルの高い人が多いとは思えません。
私個人の存在意義、何のために生きているのか、その答えは
「幸せを感じるため」
「感動するため」
です。このためには、親があまり裕福で、多くの資産をもらったり相続しないのが得策(もらう側のレベルによっては、絶対してはいけない)だと思います。
そんなわけで、私の子どもには大きな資産は決して残さないようにしたいと考えています。なんて偉そうに書きましたが、そもそも私には大きな資産を築ける可能性も低いので、我が子達は、幸せになる要素を十分に持っています。
Life is good! (人生楽笑)
これを、身をもって子どもに伝えることは、必死にしたいと思います。