【20代の頃】変わり者と仲良くなる

オーストラリアでは、何年も続けたものから、1日だけのものまで、ものすごくたくさんのアルバイトをしました。

その時の経験で、いろいろなことを学んだし、楽しい思い出もたくさん出来ました。

日本のクラブ(踊るところではなく、お酒を飲む所)は、いろいろな人と出会うことができて、一番長く続けたアルバイトです。

とても高級なクラブだったので、お客さんはみんなお金持ちです。苦労をして成り上がった人、大会社の役員、芸能人、ボンボン息子などなど、いろいろな人と仲良くなって、いろいろな話を聞かせてもらったのが、(その時は意識してませんでしたが)自分の人生観の形成に大きく役立ったと思います。 

一番の収穫(考え方)は、特定の人の生き方や考え方ではなく「みんな違う」ということ、いろいろな人が、いろいろな考え方を持って、いろいろな生き方をしていることを知ったことです。

頭で理解したというようり、体にそういう考え方が染み付いたと言った方が正しいです。

最近、私は「変わり者」と言われることがあります。私がそのころオーストラリアで付き合っていた人たちと比べたら、私など極々一般的なつまらない人だと思います。もっともっと突き抜けたいと思います。

見習うべきところが多い人から、絶対ああなってはいけない見本的な人まで、とにかくスゴイ人達と、仲良くなって付き合えたことが私にとってはとてもよかったことです。

大学生によく聞かれる質問のひとつに「どうやってそんな人脈を作ったのですが?」とか「どうして、そんな人達と付き合えたのか?」と、言うようなものがあります。

もともと、人脈を作ろうとか広げようと思ってた訳ではないので、的確な回答は出来ません。

あえて言えば、面白いなと思う人には興味津々で、目をキラキラさせて近づいて行っていたのだと思います。

もちろん、かなりヤバい人もいたので、危険も多かったです。後から思えば本当に運良く無事だったということもあります。

そういうリスクを犯して(気づかず)いろいろな人に好奇心を持って無邪気に近づき、仲良くなるというのも、若い人の特権だと思います。 

失うものはなにもないし、知識も経験もない、ただただ、自分の好奇心の赴くままに、無防備にいきなりその人の懐に飛び込むことで、相手は驚きますが、うまくゆけば急激に仲良くなれます。

それはオーストラリアでなくても、できることだと思いますが、まったく、知り合いも親戚もいない場所の方が、思い切ってできるかもしれません。

若者には「無知で、向こう見ずで、失うものがない」という若者の特権を最大限に生かして欲しいと思います。

答えを欲しがる学生

今日、岐阜大学で「自分らしいキャリア設計」という授業に呼んでいただいて行ってきました。

いろいろ質問を受けたのですが、質問のいくつかに違和感を感じました。

違和感を感じた質問1:どうして?

全ての行動に対して「どうして」という質問が出るのですが、大半は理由はあまりないことばかり、あえて言えば「やったことがないのでやってみたかった」とか「面白そうだったから」。私の場合、基本的にやったことのないことはやってみたい。大企業に就職して都会で暮らしてみたことがなかったので、やってみたかった。

海外で暮らしたことがなかったので暮らしてみたかった。

海外で海外の企業で働いたことがなかったので、働いてみたかった。 

起業したことがないので起業してみたかった。

それだけです。壮大な計画があってそれに従って実行したわけではなく、ただただ「やってみたい」と思ったから、なのです。 

違和感を感じた質問2: どうしたら良いと思いますか?

僕も就職せずに海外で暮らしてみたいと思うけど、親が反対しますが、どうしたら良いと思いますか?的な相談。

親の言うことを聞いても親は喜ぶし、親の言うことを聞かなくても、子どもが幸せに生きていればそれでも親は喜ぶと思います。結局「どうしたら良いか?」という質問はほとんど「どっちでもいい」んです。

別に私が真剣にその学生の悩みを考えていないから、どうでもいいという意味ではなく、どっちを選んでも「不幸」にも「幸福」にもなれるということです。だから、どっちを選ぶかが重要ではなく自分で納得して選べるかどうかが重要なのです。自分で決断したのならそれでよし。講師にこう言われたから決めました、ではどちらを選んでもダメ。

多くの学生たちは、私(シバタ)には20歳くらいの頃から、歩くべき道、選ぶべき選択肢が見えていて、それを選んでゆき現在に至って、楽しく充実した人生を歩んでいるのだと思っているように思っているのかもしれません。

「人生に何も失敗はない、全てが良い経験」 

と言ったのが正しく伝わっていないのだと思います。これは、決して予め分かっていた訳ではなく、痛い目にあったり、苦しい思いをしたり、回り道をしたり、道草くったりしたことが、とても人間形成に役立ったと、後付で信じ込んでいるだけなのです。

世の中には、私のように行き当たりばったりでなく、ものすごく考えている人もたくさんいます。ソフトバンクの孫さんなどは、紙を積み上げたら何メートルにもなるほどアイデアを練りまくり計画を立てて事業を行なっているそうです。人生もそうやって成功に導いているのかもしれません。

でも、その孫さんでも、すべてのことが全て計画通りになることはありえません。何メートルに積み上がる計画書を作ってもその通りにならないこともあるはずです。その時にどう対処するのかがその人の人間としての価値であり、それが楽しい、面白い、充実していると感じることができれば幸福な人生を送っていると言えるのではないかと思います。

何度かブログに書いていますが、私の人生は、

  • 行き当たりばったり
  • 臨機応変
  • 結果オーライ

それで全てが上手くいったから幸運にも現在もまだ楽しく生きています。

話を学生の質問に戻すと、質問をした学生には、人生の選択肢には予め決まった正しい答えなどないことをわかって欲しいです。

選択をした後、何が起きてどんな対処をし、それをどう自分の中で解釈するのかで、正しい選択をしたかどうかが後で分かるだけです。

そのことを授業中には話せなかったのはちょっと残念。でも、学食で数人の学生に話せたのは良かったと思います。 

やってみたいと思ったから

大学生などと話をしているときによく聞かれる質問「どうして、会社をやめたのですか?」「どうして、オーストラリアに行ったのですか?」「どうして起業しようと思ったのですか?」

それらの質問は私にとってはすべて愚問です。答えは全て「やってみたいと思ったから」。

なぜやってみたいと思ったのかは「やったことないから」。

やったことないから、やってみたい。
もうひとつ加えれば、
面白そうだから。やってみたい。

基本的に私の人生の選択はこれだけです。

唐突ですが、4月15日恵那峡ハーフマラソンに出場します。

 

出場の理由はもちろん、

やったことないから。

面白そうだから。

 

頑張りマッスル! 

【20代の頃】無料で英語学校に通う方法を考えた(1993年〜1994年)

問題に直面したとき、人によって対処法は違います。

1992年にオーストラリアに渡った私が、しばらくして抱えた問題は、

「英語を勉強したいけどお金がない」

という問題です。アルバイトをしていたので普通に生活はできてましたが、英語学校の入学金や授業料を払う余裕はありません。この問題を解決法を考えました。

解決法には大きく分けて二つあります。

  1. お金を準備する方法
  2. お金を使わずに何とかする方法

お金を準備する方法としては、アルバイトをしてお金を貯めるとか、親に頼んで送ってもらうとかあると思います。 多くの人はこちらで知恵を絞ると思いますが、私の場合は、お金を貯めている時間がない、親に頼むのはイヤ、と思っていたので、「2」のお金を使わずに何とかする方法を考えました。

 

最初に、英語学校に無料で通う方法を考えました。なかなか大手の英語学校は制度がキッチリ決まっているので難しいだろうと思い、ターゲットは小規模のオーナー先生がやっているような学校。

 

友だちが通っていた塾的な英語学校に行ってみました。英語が話せない私がどのように交渉したのかは定かではありませんが、以下の条件で交渉が成立しました。

  • 週2日授業を無料で受ける
  • 毎日掃除をする
  • 日本人の生徒との連絡係(相談係)になる
  • 余った時間に手書きの書類をパソコンに入力する

ちょうど、その学校は正式な学校としての認可を受けようとしていて、大量の申請書類を作っているところでした。オーナー(先生)は、パソコンが苦手で書類は全て手書きで作っていたので、それを入力する仕事が大量にあり、それを入力するという条件が響いたようです。実際、当時の私はもの凄くタイプが速かったので、相当役に立ったと自負しています。

  

留学したことがない人で、海外に住めばネイティブスピーカーと友だちになって、語学が上達すると思っている人がいますが、それは間違いです。もちろん、本人の頑張りによってはできますが、日本で暮らしていても友だちって学校や職場など極限られた場所でしか作れない人が多いと思います。

海外に住んだところで、語学学校には現地の人は通わないしなかなか現地の友だちって作りにくいです。だいたい、日本で人気の留学先は日本人がいっぱいすぎて、日本人のいない環境を探す方が大変です。

 

そう言うことに気づいたころ、何としても日本人のいない環境に入らねばと思って知恵を絞りました。日本人がいない職場に就職するというのも目指して、就職活動もしましたが英語がまともに話せなくて、就労ビザを持っていない外国人が普通の企業で働くというのは、メチャクチャ 難しいです。努力は続けますが、それ以外の方法も同時に考えました。

 

最初に発見(?)したのが、ボランティア。

ボランティア団体の多くは誰でも受け入れてくれます。私は海難救助のボランティアをすることにしました。資格が必要なのですが、そのボランティア団体が毎週2日勉強会を開いてくれているので、半年通いました。もちろん、言葉のハンディがあり、かなり補習をしてもらいまくったのですが、最終的には資格取得でき、友だちもたくさんできました。当時、シドニーで唯一の外国人有資格者として、ちょっと有名になれました。

ちなみに、この資格取得についてはNHKのドキュメント番組が作られることになり、取材班が2週間くらい滞在してました。これについては、山ほどエピソードがあるので、また別の機会に書きたいと思います(一番面白い話は、とてもここには書けないので、酔っぱらったときに聞いてください(笑))。

 

英語学習と友だち作りの話に戻すと、もう一つ実行したのが、宗教団体です。私は特に信仰する宗教はないのですが、いくつかの宗教団体では、毎週お祈り(?)をしてその後交流会みたいなことをやっていたり、移住者向けの英語の勉強会みたいなものを開いているところがありました。狂信的なところではなく、特に強く勧誘されることもないところを選び、通いました。(恐らく神の教えとして)そういう所の人たちは、新参者にもとても気さくにかつ、やさしく接してくれるし、たくさん話をしてもらえるので、英語の勉強にはとても役立ちました。

 

もう一つ、無料でできたのは大学の日本語を専攻している学生に交換レッスンを申し込む(チラシを作って大学に貼ってもらう)ことをしました。カフェで会って、1時間日本語で会話をし、1時間英語で会話をするというものです。これも、いろいろとても楽しかったです(笑)。

 

他にもいろいろ考えて実行しました。

 

これら全てほとんど無料ですし、普通に英語学校に通うよりずっと得るものが多かったです。

私が学生に「若いうちはとにかく貧乏になれ」と言う理由のひとつは、これです。お金があって普通に英語学校に行けてしまったら、私はこんな面白いことを考えることもなかったし、実行して、多くの経験や友だちを得ることもなかったでしょう。お金がないと人は知恵を出す癖がつきます。

 

 

【20代の頃】シンガポール空港で2日生活(1995年2月12日〜13日)

1992年から1996年まで主にシドニーで生活していましたが、途中で一度ビザが更新できず日本に帰ってきました。そのあと、無事ビザが取得できて、オーストラリアに戻る時の話です。

 

2月12日に一旦入国しかけたが、トランジットエリアの方が滞在しやすそうだったので直ぐに戻った為、VOIDスタンプを押されましたシンガポール航空の往復オープンチケットをシドニーで購入して日本に滞在していました。オープンチケットは、有効期限内ならいつでも使えるチケットで、希望日のフライトを改めて予約をして始めて飛行機に乗れます。いつでも乗れるのですが、逆に言うとフライトの席が空いていないと乗れないこともあります。

ビザがなかなか下りず、毎日ドキドキしながらバイトに勤しんでいました。チケットの有効期限が迫ってくるとだんだん焦ってきます。結局、チケットの有効期限1週間前くらいにビザがおり、オーストラリアに戻れることが決まりました。

直ぐにシンガポール航空に電話してフライトの予約をしようとしたのですが、満席で取れません。名古屋からシンガポールまでは空いているのですが、シンガポールからシドニーまでが空いていないのです。

3日ほど待っていましたが、予約は取れず、このままチケットが無効になるくらいなら、とりあえずシンガポールまで行ってしまおう、チケットを買い直すにしても、名古屋からよりもシンガポールからの方が安いだろうし。 と思って、シンガポールから先のチケットの目処が立たないまま、シンガポールに行くことにしました。

 

シンガポール空港はとても大きな24時間オープンしている空港です。空港内に宿泊施設などもあるので、お金があればずっと滞在することも可能です。もちろん、空港を出て、観光したり街のホテルに宿泊することもできましたが、いつまで滞在しなければいけないのかわからないし、1ドルでも余分にお金を使いたくなかったので、空港内に留まり、ホテルも使わずベンチなどで寝て過ごすことにしました。

未明に空港に着いたら直ぐに、シンガポール航空の窓口に行き、シドニー行きのチケットのキャンセル待ちリストに登録しました。窓口の人に聞いても、今日は無理だろうと言われましたが、万が一の可能性にかけて、暇さえあればシンガポール航空の窓口に来て、キャンセルが出ていないことを確認してました。

 

2日後にはオープンチケットが無効になってしまうので、そうなれば新しくチケットを買わなければいけません。

退屈しのぎに、広い空港内をあてどなく散歩したり、店をのぞいたり、飛行機を見たりして、空港窓口に戻りキャンセル待ちの確認・・・を繰り返していました。もう一つ、一縷の望みとしては、シドニーにいた頃にバイト先で知り合ったシンガポール人留学生から届いたポストカード。そこに書かれた電話番号に、電話をしてました。その電話は何度かけても留守番電話だったので、もう引っ越したのかもしれません。 なんせそのポストカードをもらったのは、彼女が留学を終えてシンガポールに帰国した直後、つまり、1年以上前で、その後、なんの連絡もとっていなかったので、就職が決まり引っ越した可能性は高いです。今だったらメールだとかFacebookで繋がり続けることができたでしょうが、当時はエアメールですから、よほど強く繋がり続ける気力がお互いにないと繋がり続けられませんでした。

とにかく、その日は何も変化がないまま夜になりました。夜も更けるとさすがに空港内の店も多くが閉まるので、あまり明るくないけど、それなりに安全そうなベンチで、荷物を抱えて仮眠を取りました。

思いの外、爆睡してしまい気づいたらすっかり朝で、結構な人がベンチ前を行き交うようになっていました。幸い何も取られたりはしてませんでしたが、早速、シンガポール航空の窓口に行き、キャンセル待ちを確認しましたが、返事は変わりません。

ダメだとは思いましたが一応、「明後日にはチケットが無効になってしまうので、何とかならないか」と懇願してみましたが、 席がないのだからしかたがないだろうと言われ、まだまだ先の見えないシンガポール空港生活が続きます。

おいしくない朝食を食べたあと、念のためもう一度、友だちに電話をしてみることにしました。

何度も聞いた留守番電話の自動応答メッセージ、それも本人が録音したものでないので、もしかしたら、全然知らない人の家にかけているのかもしれない。その可能性が高い。でも、誰か別人が出て「そんな人知らないよ」と言われるまで、かすかな希望の電話をかけ続けました。すると、

「Hello」

機械でなく、人間の声!!しかも聞き覚えのある声!

全身の力が一気に抜けました。。。相変わらずの彼女は、シンガポール航空に就職したこと、CAとしていろいろな国に行けて楽しいということ、CAという仕事は生活リズムが無茶苦茶になること、今回も深夜のフライトでさっき戻ってきたばかりだということを、一気に話したあと、やっと、

「ところで、あんた何処で何してんの?」

と聞くので。昨日の朝からシンガポール空港で、キャンセル待ちしながらボーッとしてることを話すと、信じられないと超驚きの声を上げて、直ぐに来てくれることになりました。

30分足らずで彼女は到着し、久しぶりの再開を喜びつつも、まずは直ぐに一緒にシンガポール航空の窓口に行きました。それまでずっと「全く席は無い」と言われ続けた窓口で、彼女がIDカードを見せながらなにやら軽く交渉すること1分、振り返った彼女の台詞に、また力が抜けました。

「どの便でもいいよ。どれに乗る?」

さっきまで空きは無いって言ってたのに・・・・。

ここまで待ったのだから、何時間か遅くなっても何も問題ないので、その日の最終便に予約を入れてもらいました。

それから、気を取り直して、まずは空港内の最高級レストランで、いろいろ思い出話などをしながら、のんびり朝食。

同じ空港なのに、数時間前までと全く景色が違います。人間は目ではなくて心で物を見るのだと言うことを体感しました。

 

その後、荷物を、シンガポール航空の窓口で預かってもらって、初めて空港の外に出て、無事シドニーに行ける喜びをかみしめながら、楽しい1日を過ごしました。

1年ちょっと前には同じレストランでアルバイトしていた彼女と私。

1年半前と同じように楽しく、くだらない話や、若者らしい初心な夢の話などをして、とても、楽しい1日となりました。

でも、私は相変わらず夢探しの途中で、自由気ままに生きているのに対し、彼女はひとつの夢を掴んでCAになり、私が何度頼んでも取れないチケットを簡単に取ったり、高級レストランで食事をしたりするような立場になっています。

少しは嫉妬っぽい感情も湧きましたが、当時、根拠のない大きな自信を持っていた私は、悲観しすぎたりすることもなく、自分ももっと行ける。こんな優秀な人と友だちになれるくらい何だから。なんて思ってました。

 

いずれにしても、彼女には本当に本当に助けられました。

それだけでなく、彼女の頑張りに大いに励まされ、さらに強い決意を新たにシドニーへ行くことができました。こういう人の繋がりが私の最大の財産だと言うことも強く感じたシンガポールでした。