我慢、我慢

我慢強いという基準は人によって違います。

ダイエットの為に食事を極端に減らしたり、自分だけでも意識がなくなるような水泳の練習もできるので私はよく我慢強いと思われていますが、自分としては全く我慢ができない人だと思います。

食事制限や水泳の練習などは、我慢とは思っていないので、我慢しているうちには入りません。好きでやっているのですから。

 

一方で、サラリーマンをしていたとき、辞めようかなと思ってからは、我慢することなく即辞めました。お金やスキルを身につけてから起業しようか、なんてことも我慢できず、直ぐに起業してしまいました。

 

起業後も、ろくに計画も立てず、お金を借りて新規事業を行って来ました。何か新しいことをやりたいと思ってしまうと、我慢できませんでした。

 

でも、このところ、ちょっとだけ我慢してます。

水泳の練習に行くのとか、新しい事業にお金をかけるとか・・・。

 

自分がどうしたいのか、ではなく、自分がどうあるべきかということを考えて、理想とする人間を演じる努力をしています。

それでストレスをためては意味がないので、そのこと自体を楽しめるように心がけています。

 

 

そうしたら、少しずつ、いろいろがうまく行き始めてきました。

 

今更ですが・・・

 

我慢、我慢。

メールを書くときに気を使う相手

日本人以外で、日本語の上手な人に日本語でメールを送る時、日本人にメールを送るより緊張します。

英語で書いたりすることもありますが、その時は気を使いません。間違っていて当然、という感覚が自分にも相手にもあるので、多少の文法のミスなどは気にせず書きます。あまりに文章がひどい場合は相手が訂正して教えてくれるので、勉強にもなります(ゴメンナサイ)。

一方、日本語でメールを送る場合は、緊張します。絶対に間違えないように、複数の意味を持つような文章にならないように、読みやすい文章になるように・・・などなど、いろいろ考えます。

私がメールを送る日本人以外の人は、かなり日本語のレベルが高いので、漢字や言い回しなどは特に考えてレベルを落とすようなことはしません。もしかすると、相手の知らない漢字だったり言い回しを使っているかもしれませんが、その人達は、それをちゃんと辞書で調べることはできるので、それこそ勉強にもなるだろうから普通に日本人が使う漢字や言い回しを使います。

でも、文章は何度も見直して問題がないことを確認します。気を使います。

普段何気なく使っている言葉も勉強しなおしたりします。なぜ、そこまで気を使うのかというのは、職業病というか癖のような物だと思います。

今の会社を作る前に働いていたのはオーストラリアの翻訳会社です。その会社では、もともと、(かなり職歴やスキルを詐称して)タイピストのアルバイトとして入社し、2年ほどで翻訳された日本語の検査する人になりました(時給は10倍くらいになりました)。そこでは、かなり日本語のうまいオーストラリア人の翻訳者の各日本語をチェックして、ほんの少しのミスも指摘する仕事をしていました。

日本語ができる友達のほとんどは、その会社で知り合った人たちなので、その頃からの癖で、日本語の専門家っぽく振舞っているのだと思います。

彼ら、彼女らとの出会いのおかげで、私は日本語の勉強をするようになりました。学生時代全く興味のなかった国語に興味を持ち、大人になってから、日本語の基本的なことから勉強しなおしました。

今でも緊張感を持って、日本語の文章を各チャンスをもらえるという意味では、とてもありがたい存在です。

常に日本語を勉強し続けている彼ら、彼女らに負けないように、より高い日本語のレベルを目指して私も勉強し続けてゆきたいと思います。

 

金魚救出作戦失敗

年末に氷が張ってから、氷が厚くなる一方だった金魚の瓶。病気っぽかった一匹が死んだっぽいのも、10cm以上の氷の下で何となく横になった金魚の姿が見えて推測していました。

餌をやることもできず、毎朝、氷の上から見守ることしかできませんでした。

それが、ここ数日暖かい日が続いた影響で、少し氷が動くようになりました。朝、水を足してやると、夕方ころには氷の周り2cmくらい解けているようでした。

これなら、氷を取り出せるのではないかと思い、金魚救出作戦を決行することにしました。

隙間から指を入れ、氷を取り出す作戦です。周りが溶け始めていたので氷の厚さは5cm位になっていると予想しました。

ところが、瓶に手を入れてみても、手首程度では氷の下に指先が届きません!それだけで氷の厚さは10cmは軽く超えています。

覚悟を決めて、上着を脱ぎ、肘まで服をめくりあげ、思い切り手を突っ込んできました。両手でどうにか抱えることができましたが、上部が狭くなっている瓶から出すことができません。

とりあえず立ててみました。

写真に見えている方は薄いほうで、沈んでいる側はこの1.5倍くらいの厚さです。氷の右側にちょっと見えているのは氷に埋まった金魚の尾びれです(南無)。 

救出作戦はもう少し暖かくなってから、再挑戦します。

それにしても我が家の玄関前は、普通のバケツなら底まで凍る寒さだということが証明され何かこの寒さを使った楽しいことができないか、考えてみたいと思いました。

ちなみに、生き残った2匹の金魚は、久しぶりに水面に上がってきて姿を見せてくれました。春までもう少し頑張ってくれ・・・。 

就職難の時代に卒業する学生が幸せである理由

私が社会人になった頃は、バブルの最後の頃でした。就職なんて言うものは、自分で好きな会社を選んで「行ってあげるよ」的な感じでした。

大学の周りには、企業の人事部の人やOB,OGたちが、待ちかまえていて、学生達を捕まえてはご飯をおごってあげたり、もっと良い店に連れて行ってもらえたりの接待があったそうです(それは私は知りません)。

とにかく、最近の学生の就職活動とは全く別の世界でした。

最近の学生達の就職活動は、本当に大変です。何十社も会社に受けても受からないなんてことは普通です。

もちろん、その就職活動の方法にも大きな問題があると思います。本当の会社のことをわかっていない学生が偉そうに「田舎の中小企業はいやだ」なんて思っていたり、そもそも中小企業の情報が伝わっていなかったり・・・。ただ、今回はその問題については置いておいて、単に就職しやすい時代と、就職が難しい時代で、どちらが幸せなのかを書きたいと思います。

たぶん、今就職活動をしている学生に聞けばほとんど、今ではなくて20年前に就職したかったと言うと思います。20年前に就職活動をしていた方が幸せだったと言うでしょう。

でも、本当は違うのです。

20年前に何の苦もなく就職した人たちは、ちゃんと選抜されたわけでもなく就職しています。本来その会社のレベルにない学生も週shくしています。バブルというおかしな時期に就職した世代だけ、その前後の世代とはレベルが違う場合があります。

しかも、その後バブルがはじけ、就職氷河期がやってきました。就職氷河期とは、企業が採用をしなかったり大幅に減らした時期です。つまり、バブル期に就職した人たちは、後輩がなかなか入ってこなかった人たちです。入ってきても少ない。その少ない後輩達は、厳しい就職活動を勝ち抜いて就職できた人たちです。優秀です。頑張ります。

バブル期に入社した人たちは、なかなか後輩が入ってこなくてずっと下っ端でいて、やっと後輩が入ってこれば、厳しい競争を勝ち抜いた強者で、大変苦労をすることになるのです。

もちろん、全てがこんな感じとは言いませんが似たようなケースは少なくありません。

就職活動に限らず、苦労して得たものにはそれなりの価値があります。たとえ同じものでも簡単に手に入れた人と、苦労して手に入れた人では、そのものの価値は全く違います。宝くじが当たって手に入れた100万円と、自分で必死に働いて貯めた100万円では、全く価値が違います。

「内定」でも同じです。苦労して得られたものにはそれだけの価値があるのです。

それで、最初の質問に戻りますと、簡単に内定がもらえて就職できた時代は良かったのでしょうか?

そのときは瞬間的に楽ができて良かったかもしれませんが、その後、会社に入って10年後、20年後に苦労をしなければいけないのです。

今、苦労して就職する人たちは、頑張って苦労して就職することで「社会の厳しさを知る」ことができるのです。頑張って成果を出す大きな成功体験ができます。長い人生で見たら、とても良い条件だと思います。

一見、悪い条件に見えることでも、見方を変えるだけでとてもよい条件にみえるものです。要は本人の受け止め方次第です。

いま就職活動中の学生のみなさん、就職難で苦労するということは、必ず身になり、将来の役に立ちます。不採用が続くときは、ドンドン人間が鍛えられていると思って、喜びましょう。 

人の言うことを聞く

前回のブログ記事で、ちょっと誤解を招いた感もあるので、ちょっと補足的なことを書きたいと思います。

 

私はいろいろな人を尊敬しているし、いろいろなアドバイスを頂くことはありがたいと思っているし、良いと思ったことは取り入れて実行するようにしています。

 

昔からそうだったかというとそうではなく、20代の頃は人の言うことは聞かなかったし、どちらかというとアドバイスを受けるとその逆のことをしていいました。例えば、「今は景気が悪いから起業しない方がいい」とか「起業するにしてもいろいろな会社で働いて勉強してノウハウや人脈を得てからの方がいい」と言うようなアドバイスをもらっても、全く聞き入れませんでした。

 

そのおかげで、苦しい思いもしましたが、苦しさを乗り越えることで大きく成長できました。

 

他人のアドバイスを聞くべきかどうか、というのは一概に言えることではありません。

※この場合の「聞く」というのは言われたことを実行すると言う意味で使っています。

 

考え方としては、若いうちは聞かなくて良いが、年を取るにつれて聞いた方が良いと思います。

 

若いうちは、ある程度自分で勝手に決めて、実行し、それで反感を買って、失敗してもよいからです。どちらかというと、そうして失敗してそれを乗り越えたときに得られるものが大きいし、いろいろな意味でやり直しがしやすいから。

 

逆に年を取ってくると、あまりアドバイスをもらう機会も減るし、若い頃に比べれば正しい判断がしやすくなるので、アドバイスを聞き入れる確率は必然的に高くなると思います。

 

具体的な適正年齢は人によって違いますが、30歳くらいまではあえて失敗する道を選ぶくらいでも良いと思うので、あまり聞かなくてもよいと思います。キツイですけどね「ほらみたことか」と言われまくるので。

 

私自身、特に意識をして他人のアドバイスを聞くようになった訳ではなく、何となく自然とアドバイスの有り難みを感じるようになってきて、聞き入れる割合が高くなってきています。

60歳くらいになったら、素直に自分の子供達や若い世代の人たちの言うことを聞けるようになりたいと思っています。

 

・・・で、最初に戻りますが、私はアドバイスをして欲しくないわけではないし、アドバイスをもらえればちゃんと熟慮します。その上で実行しないことはあっても、アドバイスをもらえること自体はとても感謝しています。

ただ、「お前は不幸だから(私の言うとおりの)幸せな人生を送れ」的なアドバイスは拒絶するし、そう言う話をされると居心地が悪いです。というのが前回の記事の主旨です。