せめて今年最後に気持よく走りたいと思いLSDに挑戦。会話をしながら走れるくらいのゆっくりしたペースで、2時間走るのを目標にしました。いつも限界ギリギリで走らないと気が済まない僕にとって、ゆっくり走るのはかなりの試練ですが、今日は厄祓いのつもりでとにかく長く走れるように頑張りました。1時間は普通に走れました。1時間30分くらいで、膝が痛み始めました。1時間50分くらいからは歩いたり走ったり・・・それでも、2時間進み続け20km走れました。来年は膝が痛まず2時間走りきれるようになりたいです。春にハーフマラソンのエントリをしました。今の状態では完走するのも怪しいですが、何とか膝を治して練習をして、去年のタイムを上回りたいです。
自由人として
団塊の世代から団塊ジュニアまではカサブタ
昨日、NPO法人G-netのチャレンジフォーラムに参加してきました。
基調講演は、デフレの正体の著者「藻谷浩介」さんでした。藻谷さんの講演を聞くのは3回目でしたが、これまで聞けなかった話も聞けてとても勉強になりました。これまで聞いた2回は、経営者向けであり、主に40歳以上の参加者が多かったのですが、今回は大学生が多く、その方々を対象に「おじさん相手の講演では言わないけど」的な発言が特におもしろかったです。
人口減少は波で押し寄せてくるという話が基本なのですが、子育てを男女で行う話や、ゆとり教育はとてもよいという話、オリンピックのメダル数が増えた要因などにも、人口構成グラフから汲み取れることがあるというのも興味深かったです。
一番面白かったのは、「日本経済がダメになっている」とか「日本はこのままではダメだ」と言っているのは団塊の世代から団塊ジュニアまでの年寄りだけ。そんな年寄りの言うことを信じてはいけないというような話。
確かに団塊の世代から団塊ジュニアまでは日本の人口構成グラフの大きな波で、それが津波のように押し寄せてきていて、現在のいろいろな問題(と言われること)がおきているけど、あと50年もすれば団塊の世代はもちろん、団塊ジュニアもいなくなり、日本の人口構成グラフはフラットになる。そして、安定成長をする良い国になる。今の大学生はそういう穏やかで幸せな老後が過ごせるのだそうです。
団塊の世代から団塊ジュニアまでは、人口構成グラフのポコンと飛び出したカサブタみたいなもので、それが剥がれ落ちれば、綺麗な新しい肌ができるという例えが、とてもしっくり来ました。私は団塊ジュニアよりちょっと上なのですが、カサブタとして潔く剥がれ落ちてゆきたいと思います(笑)
今日本を牛耳っている団塊の世代も、最も労働力として貢献している団塊ジュニアの世代も、この人達の生きてきたこれまでの日本社会では、物凄く同世代の人口が多くて競争させられていたのだけど、今は子どもは急激に少なくなってきているし、競争すべきは国内ではなくなってきています。それなのに、景気が良かった頃は、とか、景気さえ良くなれば的な考えを持って、今の若い人達に接しても共感もされないし、実際に見当違いなことばかりになります。
ゆとり教育が悪かったと言われていますが、バブル絶頂期、日本が一番良かったと言われている頃、オリンピックでは数個のメダルしか取れなかったのに、ゆとり教育をうけてきた今の若者達は40個近くのメダルを取っています。
基調講演の後の、学生たちの発表などを聞いていても、若者たちは頑張っているのだなぁと思います。
おじさんたちも、威張ってないで頑張らんとイカンなぁと思います。
【20代の頃】変わり者と仲良くなる
オーストラリアでは、何年も続けたものから、1日だけのものまで、ものすごくたくさんのアルバイトをしました。
その時の経験で、いろいろなことを学んだし、楽しい思い出もたくさん出来ました。
日本のクラブ(踊るところではなく、お酒を飲む所)は、いろいろな人と出会うことができて、一番長く続けたアルバイトです。
とても高級なクラブだったので、お客さんはみんなお金持ちです。苦労をして成り上がった人、大会社の役員、芸能人、ボンボン息子などなど、いろいろな人と仲良くなって、いろいろな話を聞かせてもらったのが、(その時は意識してませんでしたが)自分の人生観の形成に大きく役立ったと思います。
一番の収穫(考え方)は、特定の人の生き方や考え方ではなく「みんな違う」ということ、いろいろな人が、いろいろな考え方を持って、いろいろな生き方をしていることを知ったことです。
頭で理解したというようり、体にそういう考え方が染み付いたと言った方が正しいです。
最近、私は「変わり者」と言われることがあります。私がそのころオーストラリアで付き合っていた人たちと比べたら、私など極々一般的なつまらない人だと思います。もっともっと突き抜けたいと思います。
見習うべきところが多い人から、絶対ああなってはいけない見本的な人まで、とにかくスゴイ人達と、仲良くなって付き合えたことが私にとってはとてもよかったことです。
大学生によく聞かれる質問のひとつに「どうやってそんな人脈を作ったのですが?」とか「どうして、そんな人達と付き合えたのか?」と、言うようなものがあります。
もともと、人脈を作ろうとか広げようと思ってた訳ではないので、的確な回答は出来ません。
あえて言えば、面白いなと思う人には興味津々で、目をキラキラさせて近づいて行っていたのだと思います。
もちろん、かなりヤバい人もいたので、危険も多かったです。後から思えば本当に運良く無事だったということもあります。
そういうリスクを犯して(気づかず)いろいろな人に好奇心を持って無邪気に近づき、仲良くなるというのも、若い人の特権だと思います。
失うものはなにもないし、知識も経験もない、ただただ、自分の好奇心の赴くままに、無防備にいきなりその人の懐に飛び込むことで、相手は驚きますが、うまくゆけば急激に仲良くなれます。
それはオーストラリアでなくても、できることだと思いますが、まったく、知り合いも親戚もいない場所の方が、思い切ってできるかもしれません。
若者には「無知で、向こう見ずで、失うものがない」という若者の特権を最大限に生かして欲しいと思います。
答えを欲しがる学生
今日、岐阜大学で「自分らしいキャリア設計」という授業に呼んでいただいて行ってきました。
いろいろ質問を受けたのですが、質問のいくつかに違和感を感じました。
違和感を感じた質問1:どうして?
全ての行動に対して「どうして」という質問が出るのですが、大半は理由はあまりないことばかり、あえて言えば「やったことがないのでやってみたかった」とか「面白そうだったから」。私の場合、基本的にやったことのないことはやってみたい。大企業に就職して都会で暮らしてみたことがなかったので、やってみたかった。
海外で暮らしたことがなかったので暮らしてみたかった。
海外で海外の企業で働いたことがなかったので、働いてみたかった。
起業したことがないので起業してみたかった。
それだけです。壮大な計画があってそれに従って実行したわけではなく、ただただ「やってみたい」と思ったから、なのです。
違和感を感じた質問2: どうしたら良いと思いますか?
僕も就職せずに海外で暮らしてみたいと思うけど、親が反対しますが、どうしたら良いと思いますか?的な相談。
親の言うことを聞いても親は喜ぶし、親の言うことを聞かなくても、子どもが幸せに生きていればそれでも親は喜ぶと思います。結局「どうしたら良いか?」という質問はほとんど「どっちでもいい」んです。
別に私が真剣にその学生の悩みを考えていないから、どうでもいいという意味ではなく、どっちを選んでも「不幸」にも「幸福」にもなれるということです。だから、どっちを選ぶかが重要ではなく自分で納得して選べるかどうかが重要なのです。自分で決断したのならそれでよし。講師にこう言われたから決めました、ではどちらを選んでもダメ。
多くの学生たちは、私(シバタ)には20歳くらいの頃から、歩くべき道、選ぶべき選択肢が見えていて、それを選んでゆき現在に至って、楽しく充実した人生を歩んでいるのだと思っているように思っているのかもしれません。
「人生に何も失敗はない、全てが良い経験」
と言ったのが正しく伝わっていないのだと思います。これは、決して予め分かっていた訳ではなく、痛い目にあったり、苦しい思いをしたり、回り道をしたり、道草くったりしたことが、とても人間形成に役立ったと、後付で信じ込んでいるだけなのです。
世の中には、私のように行き当たりばったりでなく、ものすごく考えている人もたくさんいます。ソフトバンクの孫さんなどは、紙を積み上げたら何メートルにもなるほどアイデアを練りまくり計画を立てて事業を行なっているそうです。人生もそうやって成功に導いているのかもしれません。
でも、その孫さんでも、すべてのことが全て計画通りになることはありえません。何メートルに積み上がる計画書を作ってもその通りにならないこともあるはずです。その時にどう対処するのかがその人の人間としての価値であり、それが楽しい、面白い、充実していると感じることができれば幸福な人生を送っていると言えるのではないかと思います。
何度かブログに書いていますが、私の人生は、
- 行き当たりばったり
- 臨機応変
- 結果オーライ
それで全てが上手くいったから幸運にも現在もまだ楽しく生きています。
話を学生の質問に戻すと、質問をした学生には、人生の選択肢には予め決まった正しい答えなどないことをわかって欲しいです。
選択をした後、何が起きてどんな対処をし、それをどう自分の中で解釈するのかで、正しい選択をしたかどうかが後で分かるだけです。
そのことを授業中には話せなかったのはちょっと残念。でも、学食で数人の学生に話せたのは良かったと思います。
感動と慣れ
人間の脳は良くも悪くも「慣れます」どんなに素晴らしいことでも、毎日続くとそれほど素晴らしさを感じなくなるし、どんなに辛いことでもだんだん慣れます。
体の不調も最初は辛くて気になるのですが、慢性化すると慣れてそんなに気にならなくなります。でも、その不調が取れるとその素晴らしさに感動します。
私の場合、20年近く慢性的な腰痛がありました。腰は痛いものとして、何をするにも腰をいたわりながらしないといけない生活が当たり前で、そんなに煩わしいものと感じていませんでした。ところが、それがなくると、日常生活ってこんなにラクだったのか!と驚きました。でも、それも数ヶ月もすると当たり前になってしまいました。最近はたまに腰が痛いととても不便て苦しいです。
また、視力も高校生の頃から0.01程度で、常にメガネをかけていました。メガネ生活も20年以上しているとそういうものだと思って、そんなに不便を感じてはいませんでした。
でも、3年前にレーシックの手術をして両眼とも1.5程の視力になってみると、世の中こんなに綺麗で楽ちんだったのかと感動しました。その感動は暫く続きましたが、今では見えることが当たり前、日々感動することもなくなってしまいました。
どんなに素晴らしいことでも、それが毎日続いて「日常」になってしまうと感動をしなくなってしまいます。
良くも悪くも「慣れる」動物である人間が、感動し続けるためには変化し続けるしかありません。
これからも、常に変化を求めていきたいと思います。