iPhoneがソフトバンクからしか発売されない理由

世界中で大ヒットし、アップルの業績を絶好調にしている要因の一つiPhone。日本でも、予想通りの大ヒットでソフトバンク復活の大きな要因となっています。

これほどまでに売れているiPhoneですが、多くの人がなぜソフトバンクからしか発売されないのだろうと思っていると思います。

電波状況が悪いしドコモから出してくれと思っている人も多いようです。

でも、iPadもiPhoneもソフトバンクからしか発売されていません。

なぜ、iPhoneはソフトバンクからしか発売されないのでしょうか?その理由を考えてみました。

少なくとも、iPhoneは日本で発売される前にすでにアメリカなどでは大ヒットしていました。日本で発売すればヒット商品になることは誰でも分かることでした。当然ながら、ドコモも分かっていて、事実、かなりギリギリまでドコモとアップルは交渉していました(今でもしている?)。

ちなみに、auは、通信方式が違うので、iPhoneを大幅に改造しないと使えないため、早い段階で諦めたと思われます。

では、なぜ、ドコモとアップルは合意できなかったのでしょう。日本ではダントツのシェアを持っていて、電波エリアの広さや営業力を見ても、恐らくドコモが売ったほうがたくさん売れると思う人のほうが多いはずです。アップルでも当然そのように考える人が多かったと思います。でも、結局ドコモからiPhoneが発売されることはありませんでした(今のところ)。

合意できなかった条件は、公開されていませんので想像するしかないのですが、アップルはiPhoneの販売台数に応じて、相当な金額をキャリアからお金が入ってくるようになっているので、その部分です。

もちろん、ドコモとしても条件面で歩み寄ったり、社内で様々な議論があったのだと思いますが、最終的には合意できなかったのでしょう。

では、なぜ、ドコモは合意できなくてソフトバンクは合意できたのかということですが、ひとつはドコモのシェアが挙げられます。ドコモは日本で圧倒的なシェアを誇っています。そして、その携帯電話事業の中で、iアプリの販売でも大きな利益を挙げています。iPhoneの場合、アプリの販売は完全にアップルに委ねられ、ドコモとしてはそこから収益をあげられません。

iモードで、様々な独自サービスを展開して、そこで収益を上げてゆこうと考えているドコモにとっては、iPhoneは適していません。アップルが独自にアプリや音楽の配信をするわけですから、完全に敵対します。そういうものに対して、どれだけ譲歩できるかと考えると大きな譲歩はできないと考えるのが普通です。

それに対して、ソフトバンクはドコモに比べて圧倒的に少ないシェアで、独自サービスでの売上への影響も少なく、条件面での譲歩はしやすかったはずです。

そこでの損失以上に、iPhoneの大ヒットで得られる利益(金銭的なものだけでなく、企業イメージや将来性なども含めた利益)の方が大きいと考えたのでしょう。

ソフトバンクがiPhoneを販売するメリットは

  • 契約数が増えて収入が増える
  • 基本的に全員がデータ定額プランに入るので平均客単価も上がる
  • スマートフォンで先行することで、スマートフォンに強い企業というイメージがつけられる
  • iPhoneやiPadを使った新しいビジネスに参入できる

 

 などです。反対にデメリットは、

  • アップルと同様の要求を他のメーカーがしてくるのを抑えなければいけない
  • 通信量が増えるのでインフラ整備が必要になる
  • アップルに依存することになる

 

 などがあります。それぞれを細かく分析して、判断をしたのだと思いますが、それを全てを一言で言えば、

孫正義が社長だったから

ということになると思います。つまり、孫さんはiPhoneがどれほどの意味と可能性を持っているのかを見ぬいており、それにより厳しい条件でもアップルと契約する価値があると判断でき、トップダウンで指示できたからです。

現在のiPhone、iPad、そしてソフトバンクの業績などを見たら、孫さんの読みは正しかったことがよくわかります。

お役所仕事

最近は、いろいろ役所の方と仕事をさせてもらう機会も増えてきました。そんな中で、本当に一生懸命がんばっている人ともであっております。なので「役所」「役人」というくくりで全部をくくってしまうのはいけないかなと思うこともありますが、やはり、全体的には、いわゆる「お役所仕事」をするだけの人が圧倒的に多いです。

先日も、ある申請をめぐって、お役所の、お役人さんと散々もめました。

私が書いた書類に対して、ダメ出しをくらって何度も訂正をさせられました。 もちろん、いくつかの点は決まりだから仕方が無いことで、素直に訂正しました。

しかし、大半がどうにも納得できないことでした。その申請は申請窓口と実際に認定をする機関が別になっているのですが、窓口の担当者は「これでは認定されない」ということを何度も言います。しかし、その説明が全く論理的でないのです。

お役人様:「これでは認定がおりません」 

私:「でも、要項にはそういう規定は書かれていないのだから良いのではないですか?」

お役人様:「いや、書かれていませんが、ダメなんです」

私:「要項に書かれていない規定があるということですか?」

お役人様:「そうではありませんが、これまでこんなの見たことがありませんし。みなさん、そうされています」

私:「でも、うちでは実際にアンケートを取って、お客さんがそれを希望されているので、そうしたいのです」

お役人様:「でも、ダメだと思いますよ」

私:「ということは、公式な文書に書かれている規定よりも、強いルールがあって、それで判断されるということですか?」

お役人様:「そういうわけではないのですが・・・」

要は、その担当のお役人様が、見たことがない(前例のない)内容だから変更して欲しいというだけのことです。要項の規定に合っているかどうかとか、内容的に正しいかではなく「自分が見たことない初めてのケース」というのがイヤなだけなのです。

何度聞いても、論理的な反論は全く無いので、とにかく、これで出して欲しいことを伝えました。もし、ダメだということで、その人の上司や認定機関から、戻ってくるならそれでも良いので、そのまま出して欲しいと。

それに対してお役人様は、「出した後に、NGで戻ってくるとすべてのスケジュール計画を書きなおさないといけなくなりますよ(だから辞めときなさい)」と最後まで言いましたが、そのときは書類を作り直すから、とにかく、そのまま出してくれるように頼みました。

絵に書いたようなお役所仕事をするお役人様に、ある意味感心しました。

さて、その申請の結果ですが、全く問題なく認定されました。訂正指示も、内容確認の問い合わせもなく、一発認定です。

なかなか疲れた申請でしたが、最大の目的である認定はおりましたし、ブログのネタにまでできて、結果オーライです。 

「沈まぬ太陽」を見て、別の意味で日本が暗く沈んでいる理由が分かった気がします

先日、出張の行き帰りで、映画「沈まぬ太陽」を見ました。

映画自体は、とても面白く、思わず降りる駅を忘れそうになるくらいでした。山崎豊子の長大な原作を、無理やりまとめてるというか、端折っている部分も多いのですが、それでも面白い映画でした。

メインテーマについての感想は、またの機会にかければと思います(原作の本の感想として)が、今回はメインテーマではない部分で、感じたことを書きます。 

この映画を見ていて、違和感を感じたことがあります。主人公の転勤についてです。主人公は、組合活動などをしたことに対する懲罰人事で、何年も海外の僻地へ左遷されます。詫び状を書けばすぐに本社勤務にしてやるというオファーを受けても、信念を曲げずに、もっとひどい僻地へ飛ばされます。

この時点で、私が主人公の立場であれば、そんなに自分がひどい状況とは考えず、結構楽しく生きて行ける気がします。出世コースからは外れているので、出世はできませんが、日本有数の大企業で海外勤務をしたら、かなりの手当が出ます。僻地であれば生活費などもかからないでしょうから、お金を貯めるにも、現地で(仕事以外の)いろいろなことをするにも、十分な収入があるはずです。

でも、主人公は僻地勤務を悲しみます。その感覚が理解しがたいです。出世を望むのなら、詫び状でも誓約書でも書いて、上司に媚びて本社に戻れば良いのだし、そもそも組合活動の懲罰人事を行うような腐った会社を見限って、給料泥棒的に海外でのびのび生活すれば良いのだし、会社が本当に嫌なら辞めればよいし・・・。いずれにしても、悔しい思いで我慢しながらつまらない海外勤務をしている理由はありません。

この主人公の考え方というか、行動が私にはとても違和感を感じるのですが、でも、実際、映画の中だけでなく、日本の企業に務める人たちの多くは、同じように我慢して生きており、日本経済を支えているのは、そういう真面目(?)なサラリーマンです。 

私がオーストラリアにいた頃も、大手の商社の駐在員の人たちはみんな「早く日本に帰りたい」と言っていました。そして、2年とか3年とか言われている赴任期間をまるで出所日を待ち焦がれる服役者のように、過ごしていました。そして、できるだけ日本と同じ生活をしていました。

それが、ものすごく私には悔しいというか残念な気持ちで見ていた記憶があります。私だったらその人の何百倍もオーストラリアでの生活をエンジョイできるのに、私はビザの延長にトラブって紛争中で、その結果次第ではいつ帰らされるかわからない。帰りたくて仕方がないと言っている駐在員は、希望さえ出せば(5年や10年なら)好きなだけいられる。

価値観の違いと言えばそうなのですが、個々の価値観よりも全体的な幸福観の違いかもしれません。

つまり、「どんなことに対して価値を感じるか?」や「どんなことに幸せを感じるか?」ということは人それぞれ違っていて当然だし、違っていてよいです。世の中のすべての人に私と同じ価値観を持ってもらいたいなどとは微塵も思いません。

でも、「自分の置かれた状況において、幸せを感じて楽しく生きる」というのは、この暗く落ち込んだ現代の日本社会には必要なことだと思います。

今の生活に楽しみや幸せを感じていて、どんな状況に置かれても「楽しめる」能力が身につけば、将来に対する不安も減り、もっと日本は明るくなって、「漠然とした将来への不安」の為にだけに貯金をすることも減り、消費も増え、景気も良くなり、ますます、将来の不安も減り、楽しく明るい日本になると思います。 

日本経済が暗く沈んでいる理由は、理不尽な我慢と、将来への漠然とした不安で、それは考え方をちょっと変えるだけで改善できる問題かもしれません。

Googleが今より1万倍多くのデータを持っても検索できないもの

私は自他共に認めるグーグラー、検索中毒、グーグル依存症です。電話やテレビが無くても生きてゆけますが、検索できないと生きてゆけません。

1時間くらいネットにつながらない場所にいるだけで、落ち着きません。どんな山奥で暮らしていてもネットは必須です。

本やテレビで見たこと聞いたこと、自分のメモ、メールなどなど、何でもいつでも検索しまくっています。

グーグルは、全ての情報を検索できるようにすることを目標に謳っていて、現在でも数百億ページのWEBページのデータを収集していて、それは毎日ものすごい勢いで増えています。

相当マニアックなことでも、検索するとたくさんのページが表示されます。

検索をする機会が増えれば増えるほど、無意識のうちに検索結果を重要視するようになってしまいます。つまり、「おいしいラーメン屋」で検索して、出てきたラーメン屋がおいしいラーメン屋だと思いがちです。多くの人が、ブログに書いていたりしたら、より信用します。

しかし、多くの検索結果が出るということが、正しいとは限りません。ちょっと有名な人が書いた意見を、単にコピーしているだけかもしれません。まるごと文章をコピーしても、グーグルはちゃんと見分けますが、特定の人の意見に流されて、書かれた意見かどうかは判断できないからです。

グーグルなどの検索エンジンは日々進化しており、また、日々、膨大な新しい情報を取り込んで、検索結果に反映しています。しかし、基本的にはWEB上にある情報をそのまま検索しているだけです。検索対象が100億ページだろうが、1兆ページだろうが、その中に含まれている文字や文章を見付け出して、結果として表示するだけです。

どれだけグーグルが性能を上げても、辿りつけない別の情報の見つけ方を、実は我々人間の脳の中ではあたりまえのように行っています。膨大な情報の中から、力技で探し出す検索能力は既に脳よりも、コンピュータのほうが何倍も性能が高いです。しかし、人間の脳は、連想という方法で、情報を探すことができます。それは、現在のグーグルにはできない情報の辿り方です。

「爆笑問題のニッポンの教養 検索エンジンは脳の夢を見る 連想情報学」には、そういう事が書かれています。

検索偏重主義になりかけている自分には、ちょっと目からウロコ的な面白い本でした。

Search から Imagine に。

運の良い人と悪い人

世の中には運の良い人と悪い人がいます。

・・・と言われています。

でも、一生トータルで見たら、誰もがほぼ間違い無く運のよいことも悪いことも、同じくらい起きています。

でも、ある人は「自分が運がよい」と言うし、ある人は「自分が運が悪い」と言います。

そもそも、運がよいとか悪いというのは、どういう事なのか、ということですが、 これはとても主観的な判断です。

同じ交通事故にあっても「死ななくてよかった」と思う人は運のよい人だし、「骨折してしまった」と思う人は運の悪い人になります。どちらも同じように骨折していても。

だから、運の悪い人というのは、言い換えれば、ネガティブな思考をする人です。ネガティブな思考をする人の意見は、聞いている人も気が重くなります。

運の悪い人の近くにいると、自分まで運が悪くなる仕組みはそういうことです。決して神様が、運の悪い人の近くの人に不幸を与えているのではなく、ネガティブな考え意見を聞いている人が、その人に影響されてネガティブな気持ちになり、同じことでも「運が悪い」と考えてしまうようになってしまうということです。

私が、運がよい人と付き合いたいと考えて、運のよい人の近くにいるのは、そういう理由です。そして、自分自身もとても運のよい人間だと考えています。